こうかいドバドバ海峡

多くの後悔を抱えて読書紹介

性と生、そして死のヘヴィノベル

 このブログを開設しておきながら、全然本を読んでいなかった。少しでも時間があくと、活字を読むのが辛くなる。しかも今回はグロくて、エロくて、「喪失」の物語だ。途中で断念してしまおうと何度も思った。

 けれど、頑張って読むものだ。絶対泣かねーよ、と思ったのに、最後の行を読んだ時、目頭が熱くなって涙がこぼれた。

『海辺の病院で彼女と話した幾つかのこと』。私がライトノベルはほとんどと言っていいほど読まない理由は、すごく直接的な表現――それこそグロだエロだと言ったもの――そして思春期の日に置き去りにした、不条理に対抗するための妄想的な熱――を直視するのが辛いからだ。だけれど、この作品を読むと、「ライトノベル」に対するそんな思い込み、偏見――そんなものは消え去ってしまう。もちろんこの物語には「特殊能力」があり、「闘い」があり、生があり、死がある。ある意味でライトノベルの基本を押さえていると言っていいだろう。

 じゃあ「普通」のライトノベルじゃん、といつもライトノベルを忌避している人がいるなら――この作品を読んでみてほしい。絶対後悔しないから。今から内容を書くので、ネタバレ注意です。


 主人公の上原蒼は、1週間に1度、共に戦闘した初鹿野ハルカと駒木沙也のお見舞いに行く。そこで出会った大槻に、闘いのことを話してくれないかと頼まれたことで、彼は「終わった闘い」について語り始める――。


 日課のハイキングのあと、微熱に襲われる。夜気分が悪くなって起きると――自分と家族の身体に金属のようなものがまとわりついており、自分以外の町のほとんどの人間が死んでしまっていた。無我夢中で探っていると、蜥蜴のような謎の生物と出会う。槍を生成する「能力」、それでいて「病気」――に目覚めた蒼は交戦ののち勝利し、町の人間が死滅したのは彼らのせいであると考えて彼らの息の根を止めるためにひとり死闘の世界に身を投じていく。

 道中、同じく「力」に目覚めた同級生、若宮みもりと関脩介と合流し、蜥蜴――魔骸の殲滅に向かう。


  彼女はふたたびタオルを川に浸け、首をこすった。滴る水が肌を伝う。蒼の胸ならそのまま腹へと落ちていくところだが、みもりの場合は乳房の斜面をくだり、その先から滝のように流れた。ウインドブレーカーの膝に落ち、玉となって弾ける。
  柔らかそうに見えた乳房は上から押さえつけてこすっても形をかえない。その下の陰となった部分を拭うと、ぐっと持ち上がり、弾む、円を描くようにして彼女はその丸みを清める。
  そこと比べるせいか、肩や腕は細く見えた。彼女が腕をあげ、腋にタオルを当てる。滑らかなくぼみを蒼に向けて開くとき、彼女は目を伏せた。
  蒼はすべてを見ている。硬くなった性器を川がなぶっていく。

 

 


 

周囲には彼の斬り刻んだ魔骸の死体が転がる。それらとみもりはまったくちがった。彼女を見ていると悲しくなる。形が同じだからだろうか。彼女のこれまで生きてきた時間が、ずっと見てきたわけでもないのに、重くのしかかってくる。自分が手にかけたわけでもないのに、自分が殺したように思う。

 

 みもりの性的描写、そして戦闘の果ての死――そう、ここはとてつもなく「ライトノベル」的要素である。唐突で詳細な性描写はいわゆるそれを望む層を意図して書かれたととれるし、戦闘の果ての死は過去の我々がこぞって追い求めたであろう熱い非現実である。しかし我々は、この小説の基本的な舞台が「病室」であるということに注視しなければならない。そう、闘いは終わっているのである。これは回想録であり、彼らの「今」は病室にある。そういった意味でこの小説は本来、戦線からは遠のいている。「終わったこと」を語る蒼を追う我々は、いやでもこの小説に漂う悲しい死臭に囚われてしまうのである。

 みもりと脩介を失った蒼の前に現れたのが、初鹿野ハルカと駒木沙也、そして防衛省の息がかかった20人程度のグループであった。彼らの目的は魔骸の殲滅ではなく、捕獲だった。いざこざを起こしながら、蒼はハルカたちと絆を深めていく。そして戦闘の果てに生き残った人間は4人だけだった――その後1人は自殺、沙也は重体、ハルカは「病気」から回復することなく亡くなってしまう。

 

 彼女は死ぬのだな、と彼は悟った。
 胸に押し付けた耳に心臓の鼓動が聞こえぬためではない。死の淵に立つ彼女の方が彼を憐み、慰めようとしている。みずからの痛みや苦しみよりも彼の悲しみを癒そうとしている。もう手の届かない、地を這う人間には決してたどりつけない高みへと彼女が去ってしまったことを知る。

 

 頬に口づけ、耳に口づける。涙の味がする。
「俺のこと好きだっていってくれ」
「好きだよ」
 彼女のことばが頬をくすぐる。
「愛してるって」
「愛してる」
「俺もおまえを愛してる」
「うん」
「お前がどこにいても俺の心はおまえとともにある」
「うん。ありがとう」
「それでも――。」
 彼は体を起こした。眼鏡をかけ、彼女の瞳の奥に秘められたものをのぞこうとする。
 それでも本当には愛してくれないのか。

 


 蒼は物語終盤、敵将だったはずの魔骸に戦地へ誘われる。彼がその提案に乗ったかどうかは分からないが、彼は「失踪」する。そしてエピローグで、蒼とハルカの2人を失った「沙也」の「意識」が初めて、鮮烈に語られてこの物語は終わるのだ。


 皆さんには是非、あまりにも切ないラストを目撃してほしい。私の説明で用語が分かんねえよ、どういうことだよと思った方こそ、是非本を購入して読んでください。もちろん派手でグロい戦闘描写もあるから、それが好きな人もいいと思うけど、この小説は人と人との結びつき、そして生命、愛のリアル――を描いているという意味で純文学に近いと思う。それぐらいある意味で異色です。軽い気持ちではなかなか読めない。タイトルと表紙の絵(ほんとうに素晴らしいものです)だけではSFのバトルものだとは気づけない。騙された人も多いだろう。もちろん、私もだ。これは紛れもない、「ヘヴィノベル」。だからこそ素晴らしい作品です。

 

海辺の病院で彼女と話した幾つかのこと | 石川 博品, 米山舞 |本 | 通販 | Amazon

 

人間万事塞翁が蜂

「支えてくれた?」

  安西の父がふいに大声を出す。誰かに支えてもらわねばならんほどの大切ななにかを、お前は一度でも成し遂げたことがあったか。支えてくれたからなんだ。だから責任をとって一緒になりますとでも言うのか。そんな結婚がうまくいくはずはない、絶対やめろ、と言い募る。

 

 

個人的な話になるが、父親との関係が難しい。それは自分が思春期の頃、父親がいなかったせいもあるかもしれないし、単純に性格が合わないせいもあるかもしれない。時が経ち、お互いにそれなりに軟化したと思うけれども、それでもぎこちない瞬間がある。どこの家庭もそうなのだろうか、と思い悩むことがある。

 

今回紹介するのは、寺地はるな著『今日のハチミツ、あしたの私』だ。中学生の時いじめられた経験のある碧はたまたま居合わせた女性にもらったハチミツで元気を取り戻す。それから十年以上経ち、恋人の安西と共に父親に挨拶に行った時のセリフが冒頭である。

 

 

碧も安西も「能無し」と罵られ、それを撤回してもらうために碧は養蜂場の債権回収に向かうことになる。養蜂を手伝う代わりに、養蜂家の黒江から給料をもらい、そのお金を安西の父に渡すのである。碧は養蜂に真剣に取り組むにつれ、新しい場所で居場所を確立させていく。心温まる人たち、そうではない人たち、そして――。

 

冒頭のセリフ、こんなこと言われたら委縮してしまう。安西の父は私の父に似ている。亭主関白で実力主義者。実力のない人に対する理解の乏しい感じ。お腹が痛くなってしまいそう。また、こんな描写もある。

 

親子なんだから、絶対そんなはずないよ、などとは、碧は言わない。親子なんだからわかりあえるはずだとか、愛しているはずだとか、そんなのは嘘だ。親を心から愛せぬ子はいる。逆もまた。親と子は他人だ。

 

ええ……そんなこと言われたら悲しくなっちゃうよ。(父親との関係が難しいと言いながら)自分には友人が少なく、特に思春期以前にはほとんど親がいたから生きてこれたようなものだ。ここまでバッサリと言われてしまうと胸が痛む。

 

親のことを他人とは思いたくない。しかし、難しいのだ。血縁者だからこそ、許せない部分もあるだろう。そう考えると、なかなかに自分の世界が窮屈なような気さえしてくる。信仰心のある人は違うと言うだろうが、個人的な感覚において我々は親を、子を選ぶことはできない。人生は勝手に始まっているうえに、終わりが約束されている。

 

しかし、この小説を読み進めていけば、自分自身の努力で世界を切り開いていく爽快感に出会うことができる。もちろん、出会う人すべてが良心的ではなく、安西の父のように作為的に悪人らしい振る舞いをする登場人物もいる。そんな中でも、碧は生きていく。生きていかなければならない。人生のひたむきさを感じることができる。

 

人間万事塞翁が馬、ということわざがある。人生何が起こるか分からない。それでもみんな頑張っている。そう、たまに蜂に刺されるようなアクシデントはあるけれど。

 

 

 

今日のハチミツ、あしたの私 (ハルキ文庫) | 寺地はるな |本 | 通販 | Amazon

 

 

はじめに~後悔と航海する~

 

voyage、という単語を忘れることができない。高校生の時、海を渡るというテーマのライトノベルを書いていた。何らかの理由で記憶喪失になった少女が、地球の反対側にいる自分のドッペルゲンガーに記憶の手がかりを求めて会いに行く、というストーリーだったと思う。それに影響されて、個人的なパスワードにvoyageという単語を忍ばせておいた。

 

なのに。

 

「航海する」、という単語で後悔したのは大学生の時。英語のグループワークでとびきり可憐な女性とペアになった。音読を命じられた単語の中にvoyageがあった。私は、その単語の「意味」は理解していたのに、「発音の仕方」を知らなかったのだ。

 

読むように言われたのが俺だったらよかったのに。私はずっとそう思っている。でも違った。可憐な女子は読むように指摘され、彼女は私に助けを求めた。

 

「ねえ、これ、なんて読むんだっけ」

 

私は――情けない顔をして曖昧に笑った。彼女はなにか変な読み方をして、それで――。

 

Is that really English? と外国人講師に笑われた。彼女は紅い顔をしていた。なにがライトノベルだ。なにがパスワードだ。私は自分を呪った。

 

思えば、大学でまともに女の子と会話したのは数回しかない。衝撃的だったのは、提出1か月前に「卒論の書き方を教えて」と言われたことだ。真剣な顔つきで「いいよ」と言ったら、笑われた。彼女にしてみればくだらない冗談だったのだ。当時の自分は純粋だった。深刻な対人経験不足で、本音と冗談の区別がつかない大人だった。憶えておきたいことは忘れてしまう。忘れてしまいたいことは、脳細胞の奥にしつこくこびりついている。

 

後悔の多い人生を送ってきた。しくじって前のブログを消してしまった。今後もそういう、「積み上げ不足」のせいでいろんなことが起こるだろう。そんな時、私を支えてくれるのは読書であることを確信している。

 

このブログでは、この私ヤツハシが読んだ本を紹介していこうと思う。本文の引用を交えながら、建設的な意見を提供できるように心がけたい。更新頻度はそうおおくないけれど、あなたの人生のヒントになるような場になれば幸いである。

 

こうかいドバドバ海峡は、今日も波立っている。